2012年02月20日

黒川城の詳細

黒川城(北設楽郡豊根村上黒川字老平)

・築城
天文年中? 三河国二葉松には天正11(1583)年 山城

・主な城主
熊谷直安 熊谷玄蕃

・立地
豊根村上黒川老平集落の南に位置し、重文・熊谷家住宅の裏山にあたる。大入川沿いの尾根に連なる標高570mの独立丘で、地元では通称弘法山と言われている。山頂は現状が変更され当時の面影は全く無く、ほとんどの遺構が大正12年に土木工事で破壊されたと伝える。



・行き方
県道428号豊根村地内、温泉施設“湯~らんどパルとよね”入り口の案内表示に従って入れば、同駐車場から直ぐのところ。服装は軽装可。地元の人に訪ねるときは、「弘法山」と聞いた方が分かりが良い。

・見どころ
遺構の保存状態はすこぶる悪い。山頂部はかなり広く平坦であるが、城館等の遺構は認められない。唯一、東側を流れる大入川からは70mを超える見事な断崖絶壁になっており、往時天然の要害となっていたことが推察できる。

・歴史と戦い
豊根村周辺に分布した熊谷氏は、長野県下伊那郡坂部の熊谷伝記、兎鹿島の熊谷系図、額田郡高力の高力系図によるしか他に頼るものがない。享禄3(1530)年、松平清康(家康の祖父)に宇利城(新城市)が攻められ、落城の後、城主熊谷備中守實長の長男直安が豊根村兎鹿島に落ち延び、それが兎鹿島熊谷の起こりと伝わる。ただ、新城市中宇利の菩提寺、茲広寺に残る位牌からは、直安はその時戦死したことになっているが、熊谷伝記の方が信憑性が高いと考えられる。また、三河国二葉松には、「黒川村古城、熊谷玄蕃天正十八年信州より此処に云々」とあり、同村内に別の熊谷氏がいたとしている。
地理地形的には、ここから長野県境の新野峠方面にいくつかの砦があり、また津具城(設楽町)とを結ぶ線上にも同様に砦が築かれていることから、明らかに信州からの攻撃に対し、連携しての防御網として捉えられる。

・他に寄る
●麓に国指定重文「熊谷家住宅」がある。熊谷家住宅は、黒川城主従の一居館跡であると推察される。古民家に興味があれば必見の価値あり。(見学無料)       
●近くの熊野神社境内に、安土桃山時代の宝篋印塔が数基ある。宇利城から逃れてきた熊谷一族のものと言われている。
●ここから車で15分ほどの坂宇場地内に、「砦山城」がある。こちらは檜の見事な区有林である。険しい山であるが、比高100mを上がれば尾根を切った空堀と帯状の廓が確認できる。本丸には伊良親王とその妃を祀っている祠がある。ただし、重装備が必要。(駐車は林道の脇)
●温泉施設“湯~らんどパルとよね”(入浴料500円)は、評判の温泉なので、疲れた後は是非お勧め。


  


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2012年02月20日

設楽城の詳細

設楽城(北設楽郡東栄町中設楽字城山)

・築城
平安末期~鎌倉初期、戦国末期に改修? 山城 県指定史跡

・主な城主
設楽氏 伊藤氏(長篠菅沼氏の家臣)

・立地
東栄町中設楽のほぼ中央、蛇行する振草川がまるで城址にとぐろを巻くように流れる、その内側に築かれている。

・行き方
国道151号東栄地内中設楽の、「柿野口」バス停近くに設楽城址入り口の案内板あり(小さいので注意)。そこから200m先の中腹に駐車場がある。本丸まで徒歩3分。ただし、大型車は国道151号から侵入できないので注意。

・見どころ
曲輪、土塁、堀切、竪堀、馬出し。周辺が遊歩道として整備され説明板、案内板も親切で見学しやすい。尾根のピークにも堀切あり。すぐ下を流れる振草川がUターンしてくねっている内側を巧みに利用した天然の要害を、本丸から見下ろす景色は圧巻。
山城の縄張りは、防御の面からは独立丘が最適であるが、地形的にすべて理想的な条件は揃わない。そこで、城に連なる山の尾根を人為的に切って堀を造り、備えを強化する手法が多く採られた。この設楽城はその典型である。特に、南側尾根に切られた堀切は必見。



・歴史と戦い
遠く「保元物語」に、“三河国には志多良”とあり、この辺りには、三河大伴氏の流れを汲む設楽氏が古くから居住して勢力を張っていたことが伺える。寛政重修諸家譜は、振草荘中設楽に興った設楽氏が、正和元(1312)年岩瀬郷(新城市川路)に移り、その辺りを領し設楽氏を名乗ったとしており、南設楽郡志も同様の説である。
設楽城の地理は、別所街道を眼下に押さえ、北は津具、東は遠州秋葉道へ、また西は田峯、南は長篠へも通じる要所であった。
戦国期、設楽氏は初め今川氏に属したが、義元が戦死し氏真の時になると、菅沼氏、西郷氏とともに徳川に帰属し、更に戦国末期には伊藤氏の台頭のもとにその居城とした。伊藤氏は長篠の役の時は武田方について、そのまま甲斐に敗走したといわれる。いずれにしろ武田と徳川の狭間で翻弄されながら、たくましく生きた土豪たちの証が遺構に想い偲ばれる。
城山の西北の平坦面を今でも城市と呼んでいる。市場が立ったのであろう。他にも城山、的場、ノリザネ、コマンバなど城に関わると思われる名前が周りに多い。



・他に寄る
●2kmほど離れて、もう一つの山城、別所城址がある。(東栄中学校の校庭横)こちらは未整備であるが、マニアックな方にはお勧めする。服装は重装備必要。
●すぐ近くには東栄温泉がある(入浴料600円)。城めぐりで疲れた足を癒すのもよいのでは。
●東栄町は国指定重要無形民俗文化財の、「花祭」を伝承している町である。花祭り会館(入館料300円)は本郷交差点から直ぐで、道具、装束他伝承の資料を展示していて見応えがある。
  


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2012年02月20日

古宮城の詳細

古宮城(新城市作手清岳字宮山)

・築城
天正年間、当代記には元亀4(1573)年 平山城 

・主な城主
小畑又兵衛他 (築城は武田氏馬場美濃守)

・立地
作手高原のほぼ中心の平野に築かれた平山城で、高さは30m足らずであるが、西側を除き周りはすべて低湿地帯を推測させる、独立丘を為す天然の要害である。間近の亀山城を意識して築城されたことが明白で、西側に隣接する賽の神城、文殊山城と共に、武田と徳川の最前線での軍事的緊張が伝わってくる位置といえる。



・行き方
国道301号作手地内、「鴨ケ谷口」バス停の近くに白鳥神社の森が見える。(新城方面からは、道の駅「つくで手作り村」を通り越して約1.5km。信号あり。)その裏山全体が城跡である。駐車場は、神社正面右手の道沿いに若干あり。服装は、トレッキングスタイルが望ましい。

・見どころ
武田氏の馬場美濃守が築城したといわれる。東西二つの本丸?他曲輪、土塁、竪堀、二重の横堀、馬出し、土橋等。南面の横堀は道路拡幅で破壊されたが、その他の遺構がほぼ完全に残存している。保存状態のよさでは、県内でも随一であり見応え充分。“古宮を見ずして山城を語ることなかれ”と断言できる。
《注》曲輪を巡る際、民家の庭に下りてしまうことは厳禁!!



・歴史と戦い
古くから、作手は東三河の吉田と西三河の岡崎をつなぐ、重要な山岳ルートの結節点であった。この城は、三河に侵攻する武田が拠点として築いたことが、その縄張りの手法からも伺える。また地理的に見ても、明らかに目と鼻の先にある亀山城を監視するための押さえの城で、まさに触発の軍事的緊張のなかで築城されたといえよう。
「当代記」に「元亀四年四月、信州通昄陣、長篠在陣中、作手へも人数を遣有普請、非番手入」とあり、武田氏によって築城されたことが記されている。
しかし、この堅固な山城もその機能を有したのはほんのわずかな期間であり、天正3(1575)3年5月、長篠・設楽原の戦いの後、三河山間部の武田軍は徳川軍によって一掃され、武田氏自らこの城に火を放ち撤退し、以後廃城となった可能性が高いとされている。
今、城郭の中を歩いてみると、随所に緻密に工夫された様々な防御網に出会う。そして、この堅固な縄張りを考えると、武田氏が古宮城をいかに重んじていたかが彷彿とされるのである。まさに、兵どもの夢のあとであり、すべてはあの長篠で惨敗した武田勝頼とともに葬られたといえる。しかし、これほどの縄張りを備え、東三河侵略の重要な拠点とした古宮城を、武田氏が易々と放棄し撤退することも合点がいかず、多くの謎に包まれた山城である。



・他に寄る
●近くの亀山城は、徳川と武田の攻防を探る上でセットで回りたい。
●一連の城賽として、この古宮から続く尾根伝いに、賽の神城、文殊山城が続く。それぞれ当時の曲輪、土塁、堀などが残っていて、ちょっと険しいが足を延ばして是非見ておきたい。
  
タグ :馬場美濃守


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2012年02月20日

亀山城の詳細

亀山城(新城市作手清岳字城山)

・築城
応永31(1424)年 山城 

・主な城主
奥平貞俊(築城) 奥平貞能(天正期)

・立地
作手は、周囲を600~700m程の丘陵上の山々に囲まれた高原の地である。特に戦国期は、吉田城のある東三河と岡崎城のある西三河を結ぶ重要な山岳ルートであり、あの鳥居強右門も、長篠城からこの辺りを通って岡崎まで走った。当時はこの地一帯に40か所にも及ぶ館、砦などが凝縮して築かれていた。
この地は作手のほぼ中心地であり、最も開けた場所である。この亀山城を始めとして、現在も残るいくつかの城塞が、作手高原中央部の田園地帯を見下ろし、取り巻くように配置された景観は圧巻である。

・行き方
国道301号作手地内、道の駅「つくで手作り村」に駐車すれば、そのすぐ上が城址。本丸まで徒歩数分。軽装可。

・見どころ
本丸、二の丸(姫屋敷)、土塁、空堀、虎口。本丸から眺望する山の頂の賽の神城址、文殊山城址は、まるでパノラマの景観である。また、眼下には当時の居館跡や砦などが見下ろせ、亀山城を中心とした作手郷の様子が想像される。作手古城まつり(5月第3日曜)。



・歴史と戦い
開祖、奥平貞俊は天授年間(1375~80)、今の群馬県から移り住んだとされ、当初は近くの川尻城を居城としていたが、その後応永31(1424)年に、この亀山城を築き移ったと伝えられる。その子孫は後に「山家三方衆」と呼ばれ、当地の有力な土豪としての地位を確立していった。
戦国末期には、今川氏、徳川氏、武田氏等の配下を転々としながら氏族を永らえていたが、天正2(1574)年奥平貞能、貞昌親子は、信玄の死去を契機についに武田に見切りをつけ、亀山城を脱出し徳川の下に走った。
一方、貞能の父貞勝は武田を離れず、翌年の長篠の役では、作手親子は一族を分けて戦うこととなる。そして、貞勝は惨敗した武田に終生忠誠を誓い、武田勝頼が甲斐において自刃するまで従うのである。
いかに下剋上の時代とはいえ、一族が敵味方に分かれて戦うことは、氏族を永らえるための悲痛な選択を余儀なくされたことに他ならない。
信昌(貞昌改め)は、翌年の長篠の戦いで長篠城を死守した功績によって家康の長女亀姫をめとり、その後幕藩体制のなかで栄進を重ね、最後は岐阜加納十万石にまで上り詰める。しかし、その陰には武田に差し出していた人質(弟仙千代、いいなづけ於ふう等)を無残に処刑されており、文字通り一族郎党、肉親を踏み台にしてつかんだ繁栄であったといえよう。



・他に寄る
●亀山城のすぐ下の、道の駅「つくで手作り村」や木工体験のできる「とんちんかん」には地元の農産物や特産物、工芸品などをたくさん揃えて販売している。食事であれば、作手産トマト入りのハヤシライスが絶品。
●向かい側の山の稜線に点在する塞の神城、文殊山城等の砦群は圧巻で、健脚の方なら縦走していただきたい。
●近くの古宮城址の遺構は県下一級品で、亀山とセットで是非ともお勧めのコース。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 11:29基本情報

2012年02月20日

田峯城の詳細

田峯城(北設楽郡設楽町田峯字城)
  
・築城
文明 2(1470)2年 山城 設楽町指定史跡

・主な城主
菅沼定信(築城)・菅沼定忠・菅沼定利・戸井弥八郎 

・立地
田峯城は、県下有数の高山である段戸連邦を間近に控え、標高387mの独立丘陵に築かれた。主郭からはるか眼下に見渡す寒狭川の蛇行と、それを取り巻く周囲の山々が、まるで大蛇がくねっている様を連想させ、別名蛇頭(じゃずが)城と呼ばれている。



・行き方
国道257号田峯地内、清嶺トンネルの新城側近くにある「田峯観音」の大きな案内板が入り口の目印。そこから約5分程で田峯城址。駐車場あり。主郭の見学には200円必要。軽装で充分。

・見どころ
曲輪、櫓台、横堀、堀切、櫓台からの展望

・歴史と戦い
戦国時代この奥地は、田峯の菅沼、長篠の菅沼、作手の奥平の三豪族を人呼んで「山家三方衆」と称し、三者は互いに地縁、血縁を結んで、武田、徳川等大勢力の傘下で氏族を長らえていた。その三方衆の宗家が田峯菅沼であり、その居城が田峯城である。
五代目城主の菅沼定忠の時、天正3(1575)年長篠の戦いに従軍し、田峯菅沼は武田方について参戦したが、織田徳川連合軍の前に惨敗を喫する。定忠は敗走する武田勝頼を先導し、自らの田峯城を当座の休息場所として案内したが、家老たちの謀反にあって城門を固く閉ざされてしまう。勝頼はやむなくここから更に山道を行軍し、稲武の武節城まで辿り着き、ようやく束の間の憩いを得たのである。
定忠はこの恨みを果たすため、翌年、かつての自分の居城を逆に襲撃し、謀反の一族96人を惨殺、首謀の家老今泉道善はのこぎり引きの刑に処された。今でも土地の人はその場所(道善畑)を、祟りを恐れて触らないという。



城郭は現在「歴史の里田峯城」として整備され、散策ができるようになっている。主郭には武家屋敷を偲ばせる書院造りの様式を用いた建物が再現されている。ただ、これは往時の遺構を発掘し忠実に復元したものではなく、当時の一般的な「寝殿」の略化した「主殿」を基にしている。しかし、奥三河の山城で、主郭に建造物が建てられているのは田峯城だけで、その意味ではビジュアル的に、訪れる者の風情を誘っているといえよう。
城の縄張りとしては、主郭はほぼ楕円を呈し南東に櫓台が残る。
主郭から直ぐ一段下がった部分が御台様屋敷と呼ばれる廓で、城主の奥方の屋敷跡と伝う。この他、道寿曲輪、家老屋敷、蔵屋敷、無名曲輪、表曲輪、裏曲輪、空堀、大手門跡などの名称がついている廓がある。



・他に寄る
●城の向かい側に道善畑と首塚と呼ばれる場所があり、長篠の戦いに敗れて逃げてきた武田勝頼と田峯城主菅沼定忠に対し、家老今泉道善が入城を拒否したのを恨み、後に家定は謀反の一族96人を惨殺、のこぎり引きの刑に処したと伝わる。
●すぐ近くには三河三観音として有名な田嶺観音を祀る高勝寺がある。田嶺城築城と同時に城の鎮守として建立された。大祭は(2月11日・12日)駐車場の横に地元産品の直売所もある。
●ちょっと足を延ばして、海老地内から県道32号を上がれば、四谷千枚田のロケーションも楽しめる。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 11:13基本情報

2012年02月20日

宇利城の詳細

宇利城(新城市中宇利字仁田)

・築城
戦国期 山城 県指定史跡

・主な城主
熊谷備中守實長・菅沼定則・近藤満用

・立地
当時の三河と遠江の地を結節する重要なポイントに配置された山城であった。現在も愛知静岡県境である宇利峠、陣座峠、瓶割峠など、交易の道として日常生活に欠かせないルートである。また、荘園制度の時代からこの辺りを宇理の庄と呼んだこともあり、その中心地には城屋敷、御屋敷、市場などの地名が残っている。

・行き方
県道81号の新城市富岡交差点から東に約3km、「中宇利」信号を左折した所から城山の全景が見上げられる。山に登る場合、駐車場は特に無いので、近隣に配慮して駐車することが必要。麓の畦道にある説明板から主郭まで約20分。比較的軽装でも可。

       

・見どころ
曲輪、土塁、石積み、井戸、虎口、追手門跡(松平右京進墓)。麓から見上げる独立丘の雄大な戦国初期山城の景観。

・歴史と戦い
宇利城は源平合戦で名高い熊谷直実の末裔である熊谷直利、忠重の居城であり、戦国期には駿河の今川氏親に属していた。氏親が没した後、松平郷から興った松平清康(家康の祖父)が東三河に侵攻し、享禄2(1529)年、吉田、田原城を陥落させ、つづいて牛窪、西郷、野田、設楽、長篠、田峯等の諸将が次々に清康の軍門に下った。しかし、時の宇利城主熊谷備中守實長だけはこれに屈せず、頑として今川氏に属したままであった。


宇利城に残る石垣の跡

松平清康が宇利城を攻めたのが、翌享禄3(1530)年11月であった。三千人の軍勢を率いて野田の菅沼定則、作手の奥平貞勝(後の長篠城主貞昌の祖父)を先導として豊川を渡り、一旦八名井の今水寺で休息し、いよいよ宇利城に攻めかかった。清康は始め八幡神社に本陣を置いたが、後に冨賀寺の裏山に移動して指揮をとり、城下に火を放った。
城の正面大手からは、福釜(安城)城主松平右京亮親盛(清康の叔父)と、その弟桜井(安城)城主松平内膳正信定が、また、背面搦手からは、清康の旗本が攻めかかり壮絶な戦いが繰り広げられた。しかし、城兵は機を見て大手の木戸を開いて逆襲するなど、松平勢は大いに手こずった。そしてついには、松平内膳正信定は兄を見捨てて敗走したため、松平親盛主従は大手門で討死を遂げてしまった。
清康はこの不甲斐なさに激怒し総攻撃を命じたが、天然の要害に守られた堅城は難攻不落で、城兵は上から大木や巨石を落とし、ひるんだところへ弓矢を射掛けるなど、必死の抵抗にあって一向に勝敗は決しない。
しかし、かねてから野田の菅沼定則と内通していた城中の岩瀬庄右衛門が、手はずどおり城に火を放ったため、折からの強風にあおられ瞬く間に焼け落ちたという。熊谷備中守は裏山伝いに落ち延び、その子孫は今の豊根村熊谷姓につながっているとも伝えられている。



戦いの後は、功績のあった菅沼定則にこの領地が与えられたが、しばらくして、今川義元の三河侵攻が始まると、代わって仕えたのが近藤氏である。以後、桶狭間の戦い以降も今川氏に従っていたが、後々、徳川家康の遠江侵攻に伴い、井伊谷三人衆の一人として働いたことが知られている。

・他に寄る
●宇利城の南に盆地を挟んで対面する赤石山系の比丘尼城、それより数キロ西の地点にある五葉城などちょっと嶮しいが、山頂に立つと三河と遠州の境目の山城群としての位置関係が伺われる立地といえる。足に自信のある方は、是非落城させていただきたい。
●近くに宇利の戦いの時に、松平清康の本陣となった冨賀寺がある。客殿から眺める江戸初期の庭園が見事である。他に仏像、仏画もある。庭園は外からも見られるが、事前に拝観の許可を受けておくことが望ましい。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 11:02基本情報

2012年02月20日

長篠城の詳細

長篠城(新城市長篠字市場)

・築城
永正5(1508)年 平山城 国指定史跡

・主な城主
菅沼元成(築城)、奥平貞昌(長篠の戦い時)

・立地
長篠城は、奥三河の野と山間地の接点に位置し、東三河の平野部や遠州、美濃、伊那方面に通じる交通の要所に築城されていた。城の脇を流れる渓流、寒狭川と宇連川が本流豊川に交わる合流地点に、その天然の要害を巧みに利用した縄張りが張り巡らされた。
加えて、当時城の周りには、竹藪が密集し障壁の役目を果たしていたと見え、籠城戦には最も適した形態であったと思われる。



・行き方
国道151号長篠地内、「長篠城址」信号のすぐ近くに入口の空中表示板あり。駐車場は城址の中。

・見どころ
曲輪、土塁、空堀。鳶ケ巣砦他遠景。寒狭川と宇連川に挟まれた天然の要害。本丸の見学だけでなく、JR飯田線の踏切を渡って、野牛廓へも下りてみたい。史跡保存館(入館料210円)。合戦のぼりまつり(5月5日)。

・歴史と戦い
長篠城は、永正5(1508)年に今川方であった菅沼元成が築城し、徳川方の奥平貞昌が長篠の役の翌年、天正4(1576)年に新城城(現在の新城小学校)を築城して移るまでの、68年間に亘って存続した城である。
特に戦国末期、武田の三河突破を徳川が必死に食い止める境目の城として、最も重要な地理地形を占めていた。城にまつわる戦いとしては、天正3(1575)年5月の長篠・設楽原の戦いの時の篭城戦が最大のハイライトである。当時家康の領地は三河と遠江であったが、その直前、信玄の南下によって山間部を侵略され、その後奪還できたのは、この長篠城の他わずかでしかなかった。
家康は奪還した長篠城に、武田から寝返ったばかりの作手奥平貞昌を城主として送り込み、武田の反攻に備えさせた。ここに家康の策略の上手さと、したたかさを感じさせる。いわば貞昌にとって長篠の籠城は、前門の虎が勝頼ならば、後門の狼は家康であり、まさに人生ぎりぎりの賭けであった。
長篠以前、天正元(1573)年武田信玄没後、家督を継いだ勝頼は遺言を守ることなく他国に侵攻し、同じ年にまず美濃の明智城を落とし、翌年には父信玄ですら落とせなかった遠江の高天神城を陥落させた。
余勢をかった勝頼は、天正3(1575)年4月、信玄の三回忌の法要を済ませると、ただちに1万5千の軍勢を率いて三河に入り足助城を落とし、さらに吉田城などを攻めた後、東三河一帯に猛威を振るい、5月8日いよいよ長篠城をとり囲み攻撃を開始した。



徳川方城主奥平貞昌は、わずか城兵五百で度々の猛攻を必死に耐え、忠臣鳥居強右門の決死の脱出もあって織田徳川の援軍が到着した。一方、ここに及んで勝頼も城攻めを解き、数キロ先の設楽原への進軍を決断、天正3(1575)年5月21日早朝、織田徳川連合軍が待ち受ける馬防柵に向かって突進した。これが、世にいう「長篠・設楽原の戦い」である。
戦いの様は、後世広く周知のとおり、武田軍は連合軍の鉄砲の前に総崩れとなり、信玄以来の老将智将をことごとく失って、甲斐へ敗走した。それは、日本の歴史がはっきりと中世から近世へと動いたときであり、時代分け目の戦いであったといえよう。
それから7年後、再興を期すも勝頼は、わずかの主従と共に甲州天目山において自害、ここに武田氏は完全に滅亡した。江戸幕府開府まで、あと21年である。

・他に寄る
●すぐ近くに、長篠城を攻めた時の武田勝頼本陣となった医王寺山城があり、特徴のある縄張りが残っているので是非寄ってみたい。医王寺内には民俗資料館もある。(入館無料、ただし寺の都合で見られない場合もある)
●武田の砦群である天神山、大通寺山、鳶ケ巣山などにも足を延ばしたい。山歩きの服装が望ましい。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 10:43基本情報

2012年02月15日

いざ 黒川! 太和金トンネル通行止めが解除に 3/17

市長ブログによると、
3/17 新城から東栄を通って豊根村に抜ける
国道151号線 太和金トンネルの通行止めが解除になるらしい。
崩落以来、道はつながって初めて血脈通うものと思い知らされました。
豊根で生活される方にとっては、
どれほど待ちわびた報であることでしょう。

そういう皆さんと切実さは比べようもありませんが、
「城攻めスタンプラリー」を運営する私にとっても
「太和金通れます!!」は、ココロマチにしていた一報です。
黒川城・設楽城・田峯城・長篠城・古宮城・亀山城・宇利城の7城を厳選して始めたスタンプラリー。
301号線の通行止め(昨年末に解除)・太和金トンネルの通行止めという障害に、
頭を悩ませていました。

通行止めが解除されたことで、
黒川城を含め、
北設の3城を1日で落城させることも可能になるはずです。

ちなみに、城攻めスタンプラリーに参加し黒川城を落城すると、
兎鹿嶋温泉・湯~らんどパル豊根での入浴料金が¥300→¥200にプライスダウン。
(落城メールをご提示ください。)
こちらの温泉は、美人の湯。
アラフォーの肌をも潤す名泉です。
(スタンプラリーの期間は、3/11までです。)

豊根へのお客様が、回復することを願ってやみません。

「敵は、黒川城にあり!!」
この週末は、黒川城攻めに是非ご参戦ください。

.  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 11:52お知らせ

2012年02月13日

残り3席 3/11山城攻略実"戦"ツアー

3/11 山城ツアーの残席がわずかとなりました。
ご検討中の方は、お早目にお申込みください。

尚、受付は先着順となりますので、
この先は、FAX・メールの着信日時によって
受入が不可能になる場合がございます。
ご了承ください。  
タグ :城攻め


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 20:15お知らせ

2012年02月06日

3/11 山城攻略実”戦”ツアー

山家三方衆の居城を巡る

インストラクターと一緒に山城を歩き、
城にまつわるエピソードと
本物の城の「凄味」を堪能するバスツアーです。

長篠の戦いにおいても重要な役割を演じた
菅沼氏・奥平氏等「山家三方衆」の居城
亀山・田峯・長篠の3城を巡ります。

ツアーに参加すれば、
一気に3城落城。
論功行賞を受けるチャンスが舞い込みます。



日  時:2012年3月11日
参加費 :2,000円(昼食・保険・入館料)当日徴収
定  員:限定20名で、こくのあるツアーを
行  程:
     9:00新城市商工会館集合 ⇒ 9:10JR飯田線新城駅 ⇒ 亀山城・田峯城・長篠城
     ⇒ 15:50JR新城駅 ⇒ 16:00新城市商工会館
講  師:
     亀山城―郷土史家 原田純一氏
     田峯城―設楽町文化財保護審議会会長 今泉宗男氏
     長篠城―長篠城址史跡保存館館長 山内祥二氏

問合せ先:(社)奥三河ビジョンフォーラム 
     TEL 0536-23-2554  FAX 24-1300  E-MAIL/ovf@tcp-ip.or.jp

























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Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 18:38お知らせ

2012年02月06日

城攻め精鋭部隊 FMヤシの実を占拠

2月4日(土)
FM豊橋で城攻めスタンプラリーのことを
紹介していただきました。

山城プロジェクトを中心で切り回している
我らが軍師の二人が
パーソナリティとトークを繰り広げた20分。

最近は、どっぷり山城の毎日で麻痺していましたが、
こうしてヒトが山城語るのを傍目で聞いていると、
「非常に特異な世界の話しなんだわ…」
と思い知らされます。

だからこそ!
このプロジェクトは間違ってなかったと
確信を新たにしました。

ビバ!山城  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 18:17狼煙台日記

2012年02月01日

3/10 「山城街道攻略指南」(歴史講座)

奥三河の山城を攻略するための歴史講座
3/10(土) 「山城街道攻略指南」


日 時:2012年3月10日(土)  13:00~16:30
会 場:設楽原歴史資料館
内 容:「奥三河を巡る情勢と山家三方衆」
       設楽原歴史資料館主任学芸員 湯浅大司 氏
    「奥三河の山城と縄張」
       三河城郭史談会々長 高橋延年 氏
定 員:50名(先着順)
参加費:500円(資料代・入館料 当日申し受けます)
申 込:2月末日までに、メール・FAX・郵送またはコチラから    
    
    ①申込をするイベント名
    ②氏名
    ③年齢
    ④性別
    ⑤住所
    ⑥電話
    ⑦FAX
    ⑧E-MAIL
    ⑨当事業を何で知りましたか? (主催者ブログ・●●●新聞等)
    ⑩備考
    
    社団法人奥三河ビジョンフォーラム 「奥三河山城攻略講座係」
    〒441-1326 愛知県新城市中野15-10
    TEL 0536-23-2554   FAX 0536-24-1300
    E-MAIL ovf@tcp-ip.or.jp






















武田・徳川の国境地帯に位置する奥三河には、
多くの要塞=中世城郭の遺構を数えることができます。

しかし、建造物がなく、堀や土塁が残るのみのこれら山城群は、
ただ見ているだけでは、その面白さを味わい尽くすことができません。

この講座では、山家三方衆と呼ばれる奥三河の領主たちのエピソードや、
巨大勢力による覇権争い・地域を巡る情勢などから、
暗号のような縄張りをどう読み解くのかを学びます。  続きを読む


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 18:28お知らせ

2012年01月31日

長篠城のお土産sweets!

長篠城に程近い住宅街に
HANA SWEETSという
パティシエさんが。












これは、鳳来特産の梅をつかった濃厚なベイクドチーズケーキ。
梅酒の副産物である梅の実が入っている。
こくのあるチーズと梅の酸味。
大人リッチな味わい。

遠くない将来、
「長篠城行ったら、帰りにコレ買って帰らなきゃ…」
っていう逸品になるかも。  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 18:30雑記帳

2012年01月30日

落城 古宮城 (山城日和)

1/29
地元で「ばばあ飛ばし」と呼ぶ強風が吹く中、
古宮攻めは決行されました。










複雑な縄張り。
山本勘助の後継者 馬場美濃守による築城と言われています(説)。










土塁の上にぐるっと。
なかなか壮観です。










講師の原田先生と
サポートの丹波守。
絶妙のコンビネーションでレクチャー。
3/11に予定している
「山城攻略実"戦"ツアー」(亀山・田峯・長篠)でもお楽しみいただけます。























  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 21:06雑記帳

2012年01月30日

落城 宇利城 (山城日和1/29)

定刻の15分前に現地へ行くと、
本陣(中宇利交差点)には、
既に30名程の猛将・雑兵(失礼 身内です)が!
予想(寒いし、10~20名かな、と)を上回るご参陣に感謝するも、
満車。
隣接する区の施設をおかりし、
収容することができました。
私より先に着いて誘導して下さった、
愛知県・新城市職員の方、
ありがとうございます。

みなさんに挨拶などをしていたら、
勝手連的にPRに協力してくださった
山城サミットブログの「番頭」さんを発見。











途中には、
松平清康の叔父の墓があったりします。
(1/31 昼まで「弟」と記載しておりました。申し訳ございません。
お詫びして、訂正いたします。)















講師の安形先生も
頑張って本丸まで登ってくださいました。
ありがとうございます。












本丸で勝ち鬨をあげています。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 20:42雑記帳

2012年01月29日

時は今 出陣です 山城日和

山城日和

宇利城攻め・古宮城攻め
好天にめぐまれました。

出陣です。
乞参陣!!  
タグ :城攻め


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 09:12お知らせ

2012年01月28日

古宮城攻め 明日出陣!!

宇利城攻め同様、
明日の午後、古宮城攻め決行です。
偵察隊の報告では、
「(天候等の条件について)これなら大丈夫でしょう。」とのこと。
主催者として、ほっとしています。

鑑みるに、
本当の城攻めであれば
雨は勿論、
真夏の戦いも、
真冬の戦闘もあったわけです。

今回は保険(小口ですが)に入ったりしていますが、
当時は、怪我は言うに及ばず、
命を賭けていたわけです。

過酷。

そんな風に、
戦国の昔に思いを馳せながら
出陣準備中です。

作手は、標高が高く、
とても寒い所です。
本陣(集合場所)に至る道中、
路面凍結も心配されます。

山歩きの装備は勿論ですが、
車でお越しの方は、
自動車の足回りにも
充分な装備をお勧めします。

明日は是非、
「安全な城攻め」で
武勲をあげてください。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 20:16雑記帳

2012年01月28日

宇利城攻め 明日出陣

明日はいよいよ
山城日和 宇利城攻め
天気には悪くなさそうですが、
寒くなりそう…。

御参加下さる方は、
くれぐれも防寒を。
そして、
山歩きのできる履物でいらして下さい。
暖かい飲物なんかも
お持ちになるといいかも…。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 20:01雑記帳

2012年01月26日

古宮城攻め 1/29  山城日和・奥三河の山城を歩く

国境の城塞  奥三河  長篠前夜の城たち
山城日和 古宮城攻め(探訪)
(参加者募集)

武田・今川・徳川、巨大勢力の国境地帯に位置する奥三河。
奥三河には、築城技術の粋がこらされた城塞=山城が数多く残されています。
時代分け目の戦いと言われる「長篠の戦い」は、まさにこの地を舞台に繰り広げられたのです。

期日
2012年1月29日(日) 13:45
集合
つくで手作り村駐車場
参加費
¥0―
主催
きてみん奥三河運営委員会
問合せ(社)奥三河ビジョンフォーラム TEL 0536-23-2554
ovf@tcp-ip.or.jp
スケジュール
13:45 つくで手作り村駐車場(新城市作手清岳字ナガラミ)集合。歩いて古宮城へ。
14:00 古宮城跡着。郷土史家 原田純一氏の解説を聞きながら古宮城跡見学
15:30 終了。歩いて出発地へ
15:45 解散
備考
現地集合・現地解散、申込不要の城攻め(探訪)です。
軽い山歩きのできる服装・靴でお越しください。
気温が氷点下となる可能性があります。しっかり防寒して下さい。
積雪のある場合は、断然長靴をお勧めします。
当日午前は、新城市中宇利の「宇利城」を攻めます。
この事業は、城攻めスタンプラリーの連動事業です。
携帯電話を持って御参加ください。



古宮城概略

築城
元亀(1573)4年と当代記に伝う。平山城
主な城主
小畑又兵衛他(築城は武田氏 馬場美濃守)
見どころ
二つの本丸?、曲輪、土塁、竪堀、横堀、馬出し、土橋等。遺構がほぼ完全に残存している山城としては、県内でも随一であり見応えあり。
歴史と戦い
古くから、作手は東三河・吉田と西三河・岡崎をつなぐ、山岳ルートの結節点であった。この城は、三河に侵攻しようとする武田の拠点として築かれたことが、その縄張りの手法からも伺える(丸馬出など)。また地理的に見ても、明らかに目と鼻の先にある亀山城を監視するための押さえの城で、まさに触発の軍事的緊張のなかで築城されといえよう。
しかし、山城の機能を有したのはほんの数年間。天正3(1575)年5月の長篠の戦いの後、武田氏が撤退してからは廃城となった可能性が高い。
今、城郭の中を歩いてみると、緻密に工夫された数々の防御網に出会う。そして、この堅固な縄張りを考えると、武田氏が古宮城をいかに重んじていたかが彷彿とされる。


  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 10:27お知らせ

2012年01月25日

宇利城攻め[1/29] 山城日和 奥三河の山城を歩く

国境の城塞 奥三河 長篠前夜の城たち
山城日和 宇利城攻め(探訪)


(参加者募集)
武田・今川・徳川、巨大勢力の国境地帯に位置する奥三河。
奥三河には、築城技術の粋がこらされた城塞=山城が数多く残されています。
時代分け目の戦いと言われる「長篠の戦い」は、まさにこの地を舞台に繰り広げられたのです。

<期日>
2012年1月29日(日) 10:00

<集合>
新城市中宇利交差点横駐車場

<参加費>
¥0―

<問合せ>
(社)奥三河ビジョンフォーラム TEL 0536-23-2554
 ovf@tcp-ip.or.jp

<スケジュール>
10:00 新城市中宇利(なかうり)交差点横駐車場集合
10:10 郷土史家 安形伊佐男(あがたいさお)氏の解説を聞きながら宇利城跡見学
11:30 中宇利交差点付近駐車場に戻り解散

<備考>
現地集合・現地解散、申込不要の城攻め(探訪)です。
軽い山歩きのできる服装・靴でお越しください。
当日午後は、新城市作手の「古宮城」を攻めます。
この事業は、城攻めスタンプラリーの連動事業です。
  


Posted by 奥三河ビジョンフォーラム at 21:26お知らせ