2012年02月20日

田峯城の詳細

田峯城(北設楽郡設楽町田峯字城)
  
・築城
文明 2(1470)2年 山城 設楽町指定史跡

・主な城主
菅沼定信(築城)・菅沼定忠・菅沼定利・戸井弥八郎 

・立地
田峯城は、県下有数の高山である段戸連邦を間近に控え、標高387mの独立丘陵に築かれた。主郭からはるか眼下に見渡す寒狭川の蛇行と、それを取り巻く周囲の山々が、まるで大蛇がくねっている様を連想させ、別名蛇頭(じゃずが)城と呼ばれている。

田峯城の詳細

・行き方
国道257号田峯地内、清嶺トンネルの新城側近くにある「田峯観音」の大きな案内板が入り口の目印。そこから約5分程で田峯城址。駐車場あり。主郭の見学には200円必要。軽装で充分。

・見どころ
曲輪、櫓台、横堀、堀切、櫓台からの展望

・歴史と戦い
戦国時代この奥地は、田峯の菅沼、長篠の菅沼、作手の奥平の三豪族を人呼んで「山家三方衆」と称し、三者は互いに地縁、血縁を結んで、武田、徳川等大勢力の傘下で氏族を長らえていた。その三方衆の宗家が田峯菅沼であり、その居城が田峯城である。
五代目城主の菅沼定忠の時、天正3(1575)年長篠の戦いに従軍し、田峯菅沼は武田方について参戦したが、織田徳川連合軍の前に惨敗を喫する。定忠は敗走する武田勝頼を先導し、自らの田峯城を当座の休息場所として案内したが、家老たちの謀反にあって城門を固く閉ざされてしまう。勝頼はやむなくここから更に山道を行軍し、稲武の武節城まで辿り着き、ようやく束の間の憩いを得たのである。
定忠はこの恨みを果たすため、翌年、かつての自分の居城を逆に襲撃し、謀反の一族96人を惨殺、首謀の家老今泉道善はのこぎり引きの刑に処された。今でも土地の人はその場所(道善畑)を、祟りを恐れて触らないという。

田峯城の詳細

城郭は現在「歴史の里田峯城」として整備され、散策ができるようになっている。主郭には武家屋敷を偲ばせる書院造りの様式を用いた建物が再現されている。ただ、これは往時の遺構を発掘し忠実に復元したものではなく、当時の一般的な「寝殿」の略化した「主殿」を基にしている。しかし、奥三河の山城で、主郭に建造物が建てられているのは田峯城だけで、その意味ではビジュアル的に、訪れる者の風情を誘っているといえよう。
城の縄張りとしては、主郭はほぼ楕円を呈し南東に櫓台が残る。
主郭から直ぐ一段下がった部分が御台様屋敷と呼ばれる廓で、城主の奥方の屋敷跡と伝う。この他、道寿曲輪、家老屋敷、蔵屋敷、無名曲輪、表曲輪、裏曲輪、空堀、大手門跡などの名称がついている廓がある。

田峯城の詳細

・他に寄る
●城の向かい側に道善畑と首塚と呼ばれる場所があり、長篠の戦いに敗れて逃げてきた武田勝頼と田峯城主菅沼定忠に対し、家老今泉道善が入城を拒否したのを恨み、後に家定は謀反の一族96人を惨殺、のこぎり引きの刑に処したと伝わる。
●すぐ近くには三河三観音として有名な田嶺観音を祀る高勝寺がある。田嶺城築城と同時に城の鎮守として建立された。大祭は(2月11日・12日)駐車場の横に地元産品の直売所もある。
●ちょっと足を延ばして、海老地内から県道32号を上がれば、四谷千枚田のロケーションも楽しめる。



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